佐賀のために! Do! SAGA 佐賀市議会議員・福島龍一

 
龍一が語る
 

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介護アーカイブ

父について

父は以前、鳥栖高等学校の教員を務めていました。
石川達三著の「人間の壁」事件の頃は、佐賀県高等学校教職員組合で
書記長をしており、まさに教職員労働闘争の真っ只中にいたということです。

高等学校教職員時代は、熱血教師として無鉄砲な事をやっており
どちらかと言うと「はみ出し教員」ではなかったかと思います
それだからこそ、また父を慕ってくれている生徒さんも多く
倒れた後も、「先生は・・・」と心配して頂き、嬉しく思っています。

今日も、四国香川県からわざわざ父に面会に来ていただきました
父も直ぐに判った様で、涙を流していました
30分ほどの時間でしたが、私にとっても嬉しい時間でした

母の日プレゼント

一週間遅れての母の日のプレゼントで
昨日19日土曜日に母を連れ出して佐賀市内まで来ました

昨年12月に父が倒れてから、兎に角バタバタの日々
母を認知症に追い込む事になった事件の数々を思い起こしながら
「そういえばゆっくり美容室にも行ってなかった」と
伸び放題の母の髪をみるにつけ、連れて行かなければと
そう思いながらも、「施設に慣れるまでは・・」との思いが交錯した日々でした

久しぶりに私の車の中から佐賀の町を眺めながら
昔を思い出しながら懐かしそうに語る母
美容院で、カット、パーマをかけながら、嬉しそうにしている母
暖かい麺類を食べたいと、蕎麦屋さんでは完食した母
玉屋で洋服を買いながらも値段の感覚が消えていた母

帰りしなに「やっぱり自分だけでは生活できないのかな」と
寂しそうに言った母の言葉が、耳の奥に残りました
また、会いに来るからね

お見舞い

午後遅い時間からでしたが、両親のお見舞いに行ってきました
母は1週間に一回のペース、父は2週間に一回のペースで行きます

母の方は、介護型の老人ホームにいますので若干の自由があるのと
「帰りたい症候群」が残っているために
ある程度の感覚でストレスを取ってやらねばなりません
来週はまた、出かける約束をして帰りました

父は、病院にいます
入院当初は、徘徊などがあって強い薬のお世話になっていましたが
もともと弱っていた足腰が、いよいよ立たなくなり
車椅子生活になってからは、漢方薬を中心とした治療に変わり
今日も、かなり調子はよさそうでし

ただ、両親共に言えることは
自分では自分の事を普通に生活できると思っていて
「そろそろ自宅に帰らねばならない・・・」と言っている事です

先日、ラジオを聴いていると
「自分の生活を守るためには、これと信じた介護計画を進める事
 決して、相手のペースに合わせてはいけない」と言っていました

確かにそうだと思います
妻と私の生活をしっかり守ってこそ、ちゃんとした介護もできると思っています
自宅介護にこだわることなく、出来る範囲で誠意を尽くして行きたいと思います

次から次に

両親が揃っておかしくなった事で、思いがけない事の連続です
年明けに早速来たのが、「確定申告」でした
私もしていますので、要領は判っていたのですが
領収書等が行方不明で、思わぬ時間がかかってしまいました

年度が変わる頃に「固定資産税」の納付書が送付されてきました
我家も、新しく建てた家の納付書が送られてきて
比較しながら「金額的には変わらないな」と、何処か感心しながら
払わなければならないものは、早めにと納付しました

そして昨日、県町民税納付書と国民健康保険納付書が
揃って送付されてきました
また、JA神埼からも出資金の配当金のお知らせが届き
「こりゃまた一体なんだ」と実家から持ってきた書類をひっくり返します

そうこう考えているうちに
果たして通帳は全部あるのだろうか、保険証書は何所にあるのだろうか
と、いろいろと不安な材料が増えてきます

母が一人暮らしのときに、「大切だから」と
思いもかけないところに、現金や携帯電話男を直していた事があります
本人はそれをすっかり忘れていますので
家中を引っかきまわして、探した事があります

この先どのような事が出てくるのでしょうか
準備は早め早めにしておきましょう

コムスン

紙面には、コムスンに関する記事が引続き掲載されています
介護制度を食い物にした悪い奴・・というイメージがもたれる会社です
介護制度が始まるときに、鳴り物入りで業界に参入したころにも
一度は傘下に入ろうとした方が、「思っていたイメージと違う」といって
結局は別の所に行かれたことを思い出しました
その後に、業務の大幅縮小が行なわれたと記憶しています

しかし、現場はそうとも言ってばかりは居られないと思います
先ずは、サービスを受けていた方々の不安はいかばかりでしょうか
ただでさえ施設が少なく、順番待ちで苦労しているときに
会社の不備でサービスが受けられなくなると
端的に家族の方々が困ってしまいます

また、現場でサービスを提供していた方々の中には
誠心誠意で仕事をしていた方も居るはずです
(問題を越した職員のこともニュースにはなっていますが)

介護は制度上では施設と家族との契約ですが
実際の現場の中では、「心」が通じ合わないと
施設も、介護を受ける方も、家族もただ苦しいだけです

自分が今その立場にあって、痛切に感じるこの問題です

母の誕生日

母の87回目の誕生日です
鉢植えの花と一寸したお菓子を持って、お見舞いに行きました
紆余曲折のすえ、なんとか落ち着いてきたところですが
ここの所、少し沈みがちな顔をのぞかせています

以前は、ひっきりなしにお見舞いの方がいたので寂しくなかったのですが
一通りお見舞いが終わると、当然と言っては何ですが
お見舞いに来てくれる方も少なくなり
それが寂しさの根源にあるようです

兎に角話をするのが好きな母で、
これと言った趣味も無く、本も読まなくなり、テレビも見ません
健康な頃は感じなかったのですが
思いのほか人付き合いが苦手のような所が見えてきました

演歌や民謡、歌謡曲が好きではないので
皆様方と一緒に歌ったりすることが出来ずに
一人で部屋にこもっていることが多いとのことでした

少しずつ、少しずつ、弱っていくのが見えてきます
その姿を見ると、私の心も落ち込んでいくのが判ります
今度時間が出来たら、髪切りに行って、食事にでも行こうね

恐れていた日

通常の行事に加えて、参議院議員選挙の真っ最中と言う事もあって
なかなかなまとまった時間が取れない日々が続いている中に
ポッカリとエアポケットみたいに時間が取れることがあります
昨日は、まさにそういった日でしたので、両親との時間にしました

まだ動く事が可能な、母を連れて一週間遅れの誕生日と思い
外出する事にしましたが
ホームに迎えに言ったとき、母は私を直ぐに認識する事ができませんでした

その日、お昼過ぎまで母、妻と一緒に食事をしたり買い物をしましたが
側に付いている時は良いのですが
ちょっとでも私の姿が消えると、別の男性を私と思ってしまっていると
後から妻が言っていました

身近な関係者から認識しなくなるとは聞いていましたが
まだ軽いとはいえ、その時期が来たのだなと、悲しい気持ちになってしまいました


そして、実家に立ち寄った所、なんと空き巣に襲われていました
台所のドアのガラスをドライバーで割って侵入したようです
家の家財を廃棄処分するために、布団や書類が散らかっていて
何所をどう家捜しされたのか判りにくかったのですが
和ダンスや、引き出しが荒らされ、唐津焼などの陶器類が散乱していました

警察署から鑑識の方々や刑事さんが来て、2時間ほど現場検証をしましたが
テレビで見るのとはちがって、現実の鑑識に立ち会う緊張感を味わっていました
現場保存しなければと、侵入された台所一帯には触りませんでしたが
侵入に気付く前に結構触りまわっていましたので・・・・・
最後にバッチリと両手の指紋を取られました

両親が生活していた場所を荒らされたことが、何か痛ましく
いつかは、もしかしたらと気にかかっていたことが起こり
火事にならなかったことが幸いであったと思い返すしかなく
「今日はなんて日だ」と何処かで叫んでいたようです

成年後見人

両親の現状を良く知る方から
「成年後見人」の申請をしたらどうかとアドバイスを受けました
これは、判断力が不十分な方々を法律的に保護し支えるための制度で
財産や金銭等の管理を、本人に代わって行うものです

家庭裁判所に申立を行い、認定してもらう制度と言う事で
早速時間を見つけて家庭裁判所に出かけて説明を受け資料を貰ってきました
内容を見て、提出しなければならない書類の多さにびっくりしています

また、両親共にそういった状況ですので2通作成する必要があるとのこと
事細かに、私のことについても調査が入る事など
当然と言えば当然ですが、親子である事の証明は直ぐ出来ますし
一人っ子なので財産相続のトラブルも発生しないのに・・・と
ちょっとうんざりしています

今日は、触りたくないので、明日以降で気分の乗ったときに書きます
申請から最終決定まで長いときには六ヶ月ほどかかるとのことでした

梅雨が明けたみたいですね
暑いですね、少し眠たい気分ですが、今夜は体協もあります
もう少し頑張らねば

反響

「ふくしま通信」第34号の裏面に、私の介護について書きました
思わぬ反響を呼んでいます
「大変ですね・・・」と言っていただきながら
「実は私も・・・」と同じ苦労を共有させていただいています

介護は裂けて通れぬ問題でありながら
なかなか人には言えないものがあります
それは、見た目には同じでも、個々に状況が異なる所に
それはあるようです

しかし、その大変さにおいては、合い感じるものがあります

今日の新聞に掲載されましたので、既にご存知かと思いますが
妻の母(私の義母)が昨日他界しました
本来であれば昨日にお通夜をする所でしたが
幾つかの条件が整なわず、一日ずれました

明日が葬儀、火葬と続き、三日供養まで執り行います
今夜のお通夜にも100名を越える方においで頂き
本当にありがとうございました

義母は6年近くの入院生活を続け
3~4年ほど前からは起きる事もかなわなくなりました
妻は、ほとんど毎日義母の病院に通い、看護を続けてまいりました
病院の方々にも大変お世話になりました

他界して寂しい反面
これで義母も帰って楽になるのではないかという気持ちもあります
後は、義父が今は気が張っているので頑張っていますが
後から疲れが出て寝込まないようにと祈ります

電話に呼び出されて

朝から、校区体協の仕事と、車椅子バスケの仕事がはいり
それぞれに広告代と協賛金をいただいてきました
地域の行事や、ボランティア活動にご協力願っていますが
本当に感謝の一字しか言葉がありません・・・ありがとうございました

その後、市役所で一般質問のヒアリングです
午前中いっぱいかかって、2項目についてのヒアリングを終わりました
お昼休みには、佐賀駅で緑の共同募金のキャンペーンを行い
これまた多くの方から善意の募金を頂きました

午後も、執行部サイドと幾つかの打合せを行って
夕方家に帰って、犬の散歩を済ませ、庭の草取りをしているときに
母の居る老人ホームから電話です
こういう時間に電話がかかってくるのは良くない知らせです

定期健康診断で、心臓肥大と脳血栓、血圧異常が見つかったのですが
中身的には、それほど心配するほどのことではないのですが
最近気弱になってきている母が、それで落ち込んでいるという知らせです
「兎に角、息子さんに合いたいと言われています」・・じゃあ行かずばなるまい

着替える時間もなく、神埼まで車を走らせました
面会した時の母は、落ち着いていて取分け心配は要らないようでしたが
1時間ほど側にいて、愚痴を聞いたりと話し込んできました

今月は議会もあって、なかなか行く事が難しいと思っていたので
かえって面会できた事を嬉しく思いました
暫く話していると、気持ちも落ち着いたのか
笑顔が出てくるようになり、安心して帰ることが出来ました

今日は母と

昨日で9月議会が終わった事もあり
今日は、久しぶりに母を外出に誘いました
飴玉や着るもの等の買い物をしたり、食事をしたり
そして、髪をカットしてもらったりと、いつものパターンですが
半日ほどの時間を過ごしました

妻と私と母と、一緒に行動しているときは良かったのですが
老人ホームに戻るときに異変は起きました
「ここは何所、農協?」とホームを認識する事ができませんでした
また、自分の部屋が判らない様子で
「この部屋は・・・?」と不思議そうな顔をしていました

これまでは、帰ってきたときにホームの方々に「只今」と
声を掛けていたのですが、
今日は、何所となく不安そうな顔で、ヘルパーさんを見ていました

帰り間際には
「わたしの食事はどうなるの」とか「置いていくの」と
これまでとは全く違った反応を見せていました

叔母の逝去が、少なからず影響しているとは思いますが
先週に会った時とのギャップが大きかったので
このまま、認知が進むのではと・・不安が広がります

良い日より

昨日で一般会計決算特別委員会は終了しました
後は、11月14日に採決を残すのみです
と、言う事で今日は久しぶりのOFFです

妻の関係の仕事を午前中に済ませて
母と父の施設に出かけました
委員会や車椅子バスケットで全く自分の時間のない日々でしたので
実に10日ぶりの訪問です

母は、ここの所具合がよく、精神的には落ち着いた状態でいます
身体は、管理された食事で栄養状態もよく健康ですが
認知に関しては、多少の波はあるものの、徐々に下方に向かっています
しかし、1時間ほどいろいろと話し込み、
来週には一緒にお墓参りする事になりました

その後に実家によって、少し探し物や片づけをして
父の施設に向かいました

父は昼食後で薬のせいもあってか、転寝をしていましたが
「天気がいいから外に出ようか」と誘うと、嬉しそうにしていました
車椅子で施設の周りを20分ほど散歩しました

柔らかな秋の日差しの中で、色づき始めた山々や
たわわに実った柿、鱗雲など、まぶしそうな顔で見ていました
何を話すでもないのですが、肩をもんだりしながら
暫しの時間を過ごして帰りました

夜は、11月3日の八幡神社の秋祭りの準備です

今日の両親

日曜日にOFF、これは珍しい事です
せっかくの日曜日でしたので、午前中は両親の時間です

父は、休憩室で患者の方々と一緒にくつろいでいました
私に気づくと「よぉ!!」と手を上げて呼び込みます
「この間はシベリアに行って来た」
「一昨日は西鉄バスに乗って二日市に行ってきた」と
何処か自慢げに話します

気分的には落ち着いていたようですが
暫くすると「息子の龍一は何所にいるのだ」と聞きます
「それじゃ僕は誰か」と聞き返すと「龍一の孫の与一だ」と
「奥さんの名前は何だ」ときいても、答えは出ません

先日は、名前は出なかったものの息子だとは判っていました
母の名前は、最近出てきません
同じ病院に住んでいると思っているようです

「一緒に出かけてうどん喰いに行こう」としきりに言いますので
病院に外出許可を申請してきました

母は、落ち着いていました
ここ数回は会うたびに「ここを出たい」と言う事を言っていましたが
今日は、それは無く、「仕事に頑張りなさい」と励まされました

「親父がグループホームに移ったら、一緒に住みたいか」と聞くと
答えが出ませんでした
デジカメで撮影した父の写真を見ても、反応は鈍く
4月の大事件のときに、よほどの事があったようです

両親共に健康状態は安定しているようで
それだけは安心しています

両親の近況

昨日は、午後から少し時間がありましたので
両親のところに出向きました

母は、最近本当に状況がよく、気持ちよく1時間ほど話していきます
少しですけど母が好きそうなお菓子と
コーヒーやお茶を持ち込んで、気分転換を図ります
話も穏やかで、時折父のことを聞きますが
父に関する記憶力はかなり低下しています

再入所する祭に、あれほど嫌がった施設に
「自分から」帰ると言い出した原因が見え隠れします
それでも、帰るときには少し寂しそうな顔をします
その顔を見るのが、辛く感じています

父は、その日その日で状況が異なります
昨日は少し怒った表情でした
こういう時には、私の名前も出てくるのですが
昨日はとうとう出ませんでした

ただ、私が息子であると言う事は判っている様子で
「時計と眼鏡とベルトと・・・四つ持ってこい」と言っていましたが
この四つの名前が出てくるまでに相当の時間を要しました

また、母が同じ施設にいると思い込んでいますので
他の人を母だと勘違いして、「母ちゃん」と指差しています

帰りしなには「俺も帰る」と言い出して
「帰れないと」言うと、それが理解できなくて
涙を流したりしています

運命の日

あの事件が起た日になりました
正確に言うと、12月13日午前4時頃の出来事です
ですから、この時間は既に父は入院している事になりますが
まだ、この入院が介護に向かう警鐘だったとは思っても見ませんでした

母からの突然の電話は「父さんが倒れた、どうしよう」
以前にも軽い脳梗塞で入院した事のある父ですから
てっきり脳梗塞か蜘蛛膜下かと思ったのですが
この日は、足がもつれての転倒でした

神埼消防署に電話を入れて救急車を要請し
佐賀に搬送してもらいました

これから正月までの一人暮らしの中で
母は徐々に生活力を失っていくのですが
それを私が認識するのはまだ先のこと
2月に入ってからの事です

兎に角全ての事が、1年前の今日から始まりました

母との一日

今日は、母と一緒の時間を過ごしました
朝9時に施設に迎えに行くと
「今日は外に出れるのね」と嬉しそう
「先ずは、頭を奇麗にしにいこう」と美容師に直行です

概ね2時間ほどかかって、カットとパーマです
終わり頃に迎えに行くと、本当に嬉しそうにしていました
本人も気分が良かったと見えて
終始ニコニコしていました

その後で食事に行きましたが
母は、「施設では温かい麺類が食べれない」とこぼしていますので
こういったときは、ほとんど麺類のお店です
今日も、月見蕎麦を注文していました

我家に立ち寄って、仏壇が引っ越している事を確認したあとで
東脊振の西往寺に向かいました
今年行なわれた、五重相伝のお勤めをしていただきました
概ね15分程度だったかと思いますが
お念仏を唱える母の姿は、忘れない事と思います

その後に施設まで送り届けましたが
どうしても別れのときの寂しさが伴い、辛い気持ちになります

また迎えに行くから、元気でね

介護と仕事と

介護をしなければならない年齢が決まっているわけではありません
老老介護という実態もありますが
子どもが親を見ることを想定すると、現役世代にその時が訪れるケースが
多くの場合には想定されるのではないでしょうか

赤ちゃんを育てていくのと異なり、介護には、先が見えません
子どもは、這えば立て、立てば歩め、歩めば進めと
段階を追って成長しるので、「我慢」の限界点が見えますが
介護から開放される時は、死を迎える時・・・・

しかも、最近の介護のあり方として自宅介護を推奨する傾向がありますが
夫婦共稼ぎの家庭ではそれは無理と言うもの
然るに、介護者を受容れる施設は少なく、どこも順番待ちです

男女共同参画で仕事に出て行く女性が増える事は良い事です
以前は、女性は家庭と言う風潮があってので、
自宅介護は
女性の犠牲の上に成立していたといって過言ではありません

しかし現在、本当に自宅介護がしっかりと出来る家庭はどの位あるのでしょうか
自分の生活や仕事を犠牲にすることなく
夫婦の一方により多くの犠牲を強いることなく介護が出来るのでしょうか

日本の社会補償の脆弱さを感じます

父の心

先日、実家の大掃除をしている時に、偶然に見つけたもの
それは、父が書いた一通の書簡でした

「火事にあったと思って、全て廃棄処分します」と言う決意で
一つ一つを見ることなく
手伝いに来てくれた仲間たちと「廃棄」に頑張っていました
しかし、残すべきものは目に留まるものです

これまで3回の「廃棄作業」でも、幾つかの品物が残りました
今回のものもその一つと思います
他のものと一緒に廃棄される瞬間に目に留まったものでした

今日は、その書簡をご紹介したいと思います。


二〇三九年の東脊振村 村長殿へのメッセージ
五十年後の村長さん
親愛の情をこめて、そう呼ばしてもらいます。私は仲間たちと力を合わせて、村制施行百周年記念塔の建立をはじめ、権現山南麓整備事業・農業集落排水事業・田手川親水事業などいろいろの事業に着手しました。

その中で一番私を駆りたて、喜びと期待と夢をもたせてくれたのは、他ならぬこの記念塔の建立とタイムカプセルの収納でありました。

今、私は五十年後を夢み、東脊振村の輝かしい発展を心に描きながら、毎日を精いっぱい勤めています。願わくば、お会いすることは絶対にないと思う五十年後の村長さんよ・・町長さんではあってほしくない、たとえ、人口が七千人以上であっても・・

私が就任直後「すばらしい桃源郷をつくりあげることを目標に頑張ります」と村の人々に声高らかに宣言した、そのような村になっていることを願いながら、先人の境地より、私がこよなく愛した故郷「東脊振村」と村の人々の幸福を、私の仲間たちと共に見守っています。

地球規模での不安材料もたくさんあります。しかし、さらにさらに楽しい村でありますように、あなたの仲間と共に精を出してください。
五十年後の村長さん万歳!

第十六代村長 福島俊彦(65才)
平成元年一九八九年十月吉日

父の心・・続き

昨日のブログを読んで・・というjことでメールを頂きました
ご本人は得ていませんが、掲載させていただきます。
このメールを読んで私もとても嬉しく思いましたし
おそらく、父が理解できる状況であれば、より一層喜んだと思います


今日、議員の目読まして頂きました。「父の心」

今、何となくと言うか、何か心が弾んでいます。
何回も読むうちに言葉では表せないものがこみあげてきました。

お父上の書かれた書簡を公表され、それを読み
今の自分が、今の暮らし、仕事に何も考えず
その日暮らしの様な生活をしている事に情けなくなり、
今の自分を前向きに考え、自分の将来に向かってビジョンをもち、
生きていくことを、改めて考え直さなくてはと。

人生の先輩に習って頑張りますと、自分の夢を持ち、
叶えるように努力すると大声で叫びたくなります。


東脊振村と言う名前は合併によって消えました
タイムカプセルを開く時、果たしてこの書簡を読んでもらえるのか
その頃には、私も存在していない可能性が大きいので
何ともいえません

タイムカプセルの中には、村長の孫と言う事で
息子と娘の記録も入っています
出来れば、その時に読んでもらいたいと願っています

ただ、父が天寿を全うした時に、生きていた証として
その時に私が読みたいとは思っています

確定申告の準備に

確定申告の準備に追いまくられています
昨年は父は4回転院した上に、その他にも病院にかかっています
それにつれて薬局も変わります
紙おむつも使っていますので、証明書が必要です

介護保険も使っていますので、そちらの対応もあります
高額医療還付金も受けています
幸いと言うか、残念と言うか生命保険には入っていません

我家も妻の入院手術で、相当額の医療費がかかっています
そういった、もろもろの医療費控除に関わって一日を過ごしました

各病院、佐賀税務署、吉野ヶ里町役場(三田川・東脊振)と渡り歩き
いろいろと勉強をしてきました・・勉強になりました
我家の分は、夕方までに出来上がりましたので
今夜は実家の分です
これが以外に難しい・・・理由は簡単、源泉徴収票じゃないからです

今夜も、国税庁のホームページから入り込んでの
ネットでの書類作成です

介護記念日

1年前の運命の日を迎えました、この日から全てが始まりました
「お父さんを別の施設に移して欲しいんですが」という電話を聞いて
「何があったのだろう」という思いで、病院に駆けつけました
「昨夜徘徊されて・・・」一気にどん底に落ち込んだ気分でした

母から、「親父さんの面倒を見きれないから入院させて」と言われて
入院して2日目、今更家に返すわけにも行かず
午前中は、途方にくれていました
父は自分が徘徊した事を認めようとせず「看護士がウソを言っている」と
「家に帰るから車をもってこい」と目は三角です

何とか、友人の病院が引受けてくれると言うので
「兎に角、この病院は退院しようか」と言って連れ出しました
友人の病院に入院したときにも
本人は「自分はどこも悪くないから帰る」の一点張り
大声で怒る父を残して帰りのエレベーターに乗った時には
言葉に出せない寂しさを感じていたものでした

この日から2ヶ月間を父はこの病院で過ごすのですが
最初の1ヶ月は、まさに戦闘状態でした
私の介護戦争の始まりの記念日です

次の課題は

妻の病気治療は、遅遅として進みません
先々週の検査で白血球の異常低下が見られて
皮下注射で、一度は血球数が回復したのですが
今日の検査で、再び白血球数が低下していたために
第3回目の抗がん剤投与は中止になりました

暫くは、血球数が回復するのを待ちながら様子を見ると言う事ですが
本当に自宅での治療でいいのか、不安になります
以前なら無菌室に入るような数値と言う事ですので
間違っても風邪をひかせるわけには行きません

と言う事もあって、義父のお世話をする事が出来そうにも無く
そういったこともまた、妻のストレスに繋がっているようです
親戚の方や、義父をよく知る方から
「ケアハウスへの入所を考えたら」というアドバイスもいただいています

いずれにしても、妻の治療が長引くのは間違いの無い所ですので
実際に義父も伴って、ご本人の考え方も確認しながら
複数の施設を見てきました

施設によって受ける印象はかなり違いますが
ここなら納得できると言った施設にもめぐり合い
取敢えずの入所手続きだけはしてきましたが
まだまだ順番待ちの方が多く、実際の入所は先のことです

私の両親は介護状況なので本人の意思に関係なく入所させましたが
義父は、要支援1程度の状況ですので
本人の意思を十分に尊重し、理解してもらいながらの進行です

兎に角、今は妻の治療が再開できることが第一の課題です

介護記念日 その2

今日も私にとっては忘れられない日です

父の介護認定を申請し、調査を依頼してから
「環境が変わったら2週間は間を置いて欲しい」と言う事で
一年前の今日に、父の介護認定面接を予定していました

しかし、その2週間の間に、母もまた認定面接を受けるようになるとは
思ってもいませんでした
この2週間は、ほぼ毎日のように実家に出向き
食事や風呂の準備などをしてきましたが
母の異常に気づいたのは、電話機を元に戻せなくなった事からでした

用があると電話がかかってくるし、毎朝所在確認で電話するのですが
電話が終わったあとで、受話器を上手く戻せない事が起きはじめました
その度に、先ずは携帯電話を掛けるのですが
それで解決しない時には、実家まで車を走らせました

一度は、宴席の途中だったのでタクシーで往復した事もあります

そういった状態の中で、両親揃って介護認定調査にあたりました
そして母には「健康診断のため」と断って強制入院
そしてこれが、母と私との二ヶ月にわたる入退院戦争の始まりでした
認知症になりかけている事を認められない母との葛藤でした

振り返れば、4月13日に現在の状態に落ち着くまでの間が
一番きつかったのではないかと思います

介護施設は必要

政府は、高齢者が長期入院する療養病床の削減を進めていますが
本当にそれでいいのでしょうか
また、知的障がい者の方々の施設も本当に不足している現状を
どの様に考えているのでしょうか

自宅介護で・・・とは、もっともらしい言い方ですか
一方では男女参加、女性も社会進出をと唱えているわけですから
核家族化が進む日本において
どの様に介護を進めればいいのでしょうか

端的私も、私の両親を施設で預ってもらっています
妻の母も、6年ほど介護状態が続きました
妻の父もケアホームへの入所待ちの状況です
私は一人っ子、妻の兄妹も遠方にいるために
私達夫婦で4名の高齢者を抱えていた状況です

介護施設なくしては今の生活を護る事はできませんでした
介護したくても介護できない家庭もあり
自宅では対応できない状況も多くあります
政府の役人や、国会議員はその現状をどの様に認識しているのでしょうか

もっと、国民生活の現状を把握して欲しいと思います
また、一部では介護や福祉を地域で担う・・などと言っているようですが
本当にそれだけの力が地域にあるのでしょうか

公民館活動や地域活動となると、見かける顔は同じ顔
同じ人が幾つもの役をこなしているのが現状です
地域というコミュニティーを成熟させ活性化させることは大事な事ですが
一度壊れかけた地域を復活させるにはまだまだ時間が必要です

きれいごとでは済まされない現実
今日の新聞に見た「せんたく」「せんたく議連」にも大いに期待します

昨日のニュースで

これでもかの介護に関する事件です
老老介護に疲れた夫婦の殺人事件がまた起きました
この10年間で360件ほどのこういった事件が起きています
中身はそのほとんどが「自宅介護」に疲れての
思い余っての殺人事件です

入所を申込んでも、施設不足で順番が来ない
ともすれば2年間ほど待たねばならない所もあるとか
また、最近の風潮で個室形が増えた事で入所費が高いなど
介護施設をめぐる環境はけっして良好とはいえません

また、先日知的障がいを持つ方々の支援事業をされている方と
こういった介護のあり方に話が及んだ時に

子どもに知的障害がありとても自立できない
しかし自分も高齢化してしまい、自分が死んだ後の事を考えると
いても立ってもいられなくなり、子どもを手にかけてしまったと言う事件があり
「誰がその年老いたお母さんを責める事ができるのでしょうか」と悔しそうに語られました

裁判は長引き、ようやく執行猶予の判決が出て、自宅に帰ったその日に
そのお母さんはお亡くなりになられたそうです
受け入れてくれる施設さえあれば
豪華でなくても、清潔で安全な所であれば良いのです

国は、本当にこういった切実な問題に目を向けるべきです
マスコミももっと声を大きくして、世論に問うべきです
きれいごとで介護は語ることが出来ません

彼岸の中日

お彼岸と言う事で、母をお墓参りに連れ出しました
風が強くあまり良い天気とはいえませんでしたが
気分転換も含めての外出です

初めに福島家のお墓にお参りしました
実家の近くにあるのでついでに実家にも寄りましたが
母の表情からは、実家を懐かしむ様子は伺えません
お墓にロウソクと線香を手向けて、本堂をお参りしました

佐賀市内で昼食を取る予定にしていましたので
母の実家、大和町にあるお寺にも寄り道する事にしました
最初は乗り気薄の母でしたが、お寺につくと
一目散にお墓に向かいます

2~3年ぶりのお墓参りではなかったかと思います
本堂にお参りしている時に偶然に母の同級生とばったり
30分ほど話に花が咲きました

佐賀市内で蕎麦を食べた後でホームに送り届けましたが
言葉の端々、行動の随所に認知進行の形跡が見えます
徐々に徐々に認知は進行しています

来週には、東京に就職する息子が帰ってきますので
両親の所に一緒に行く予定です

核家族化の中で

国は労働力を100万人増強する政策を発表しています
団塊世代の退職や少子化からくる労働力不足は深刻な問題です
労働こそが価値を生む基礎であり、国力の基礎であります
退職した高齢者や、ニートと呼ばれた世代がターゲットのようです

その事自体には特に問題があるわけでもないのですが
女性の社会進出や、少子化は
子育てや介護のあり方に大きな影響を与えずにはおきません

「誰が見る」が一つのキーワードとして考えておかねばなりません

結婚して夫婦共稼ぎの中でも、子どもたちを育てる環境は
いろんな形で充足されてきています
育児休業や児童クラブ、0歳児からの保育など
親の負担を軽減して子ども達を守ろうとするシステムが出来てきています

私の自論は、子どもの精神的な発達環境として優良なのは
「子供は親が見るべきもの」という考え方です
せめて小学校に上がるまでは、親が傍にいて
いろんな事を一緒に体験して行く事が大切だと思っています

子育てには「期限」を切る事が出来ますから
この期間に対する公的補助と、再就職の道筋を作ることが出来れば
決して不可能な事ではないと思います

一方介護や病気療養などについては
家庭に戻す方策が採られています
介護を見るのは、ほとんどが長男の家族で無期限です
家族全員を巻き込んでの「戦争」が展開されています

自宅で十分な介護を行なうことが出来る家庭はいいのですが
多くの場合、仕事を休んだりしながらの介護になりますし
夫ではなく妻のほうに大きな負担がかかります
知人の奥様も、介護のために仕事を辞められました
年齢歴に再就職はほとんど期待できません

子育てと異なり、終わりは見えません
また、終わりを期待するという事は、死んで欲しいということなので
子としてそれを期待することは出来ません

社会人として最も充実する4、50歳代に介護は訪れます
国はここにこそもっと目を向けて
家庭介護が出来ない方々に対する対策を採るべきだと思います

介護に対する自論は
「施設を充実させ、専門的な援助を受けさせたい」となります
そうすることで、労働力の確保もある意味可能になりますし
何よりも、家族の負担を軽減する事ができるからです

特殊法人や天下りを廃止し、ODAの見直しを行うだけで
子育て、介護に関わる費用は余りあるほどに出てくると思います
介護保険料の年齢制限を外すことも考えてみる必要があります
目的税として消費税を考えてもいいのではないでしょうか

住所変更

午前中の早い時間に、幾つかの要件を済ませてから
佐賀市文化会館イベントホールで行なわれた
佐賀たばこ販売協同組合の総会及び通常総代会に出席しました
議長代理と言うことで、経済企業委員長と言う職責での出席でした

機構改革や規制緩和の影響などもあって
たばこ産業にもいろいろと問題が山積しているようです
また「タスポ」の導入で自動販売機の売上が低下しており
カードの普及に関する問題なども指摘されていました

私は、たばこに関しては何回か一般質問した事もあり
受動喫煙防止、歩きたばこ禁止条例の制定に勤めてきましたが
それと同時に喫煙者の権利もまた守るべきであるという見解も示しています
つまり、分煙の成熟化を目指しています

禁煙者の受動喫煙を防止し、喫煙者もまた気持ちよくたばこが吸える
そういった環境をお互いに理解しあう事が大切です

さて、今日、両親の住所変更をしました
実家のほうは、既に人に貸しており「蕎麦屋」として営業が始まっていますし
仮に戻ってきても、それは実家のほうではなく我家の方ですので
今日から両親は佐賀市民と言うことになりました

父の日に

今日の佐賀新聞に掲載された「勧興まちの駅」の写真に
私が写っていました・・お気づきになりましたか

さて今日は、父の日
時間もあったので、妻を伴って両親のところに出かけました
妻と一緒に行くのは、妻の病気発覚以来です

母は、体力的にはまだまだ元気ですので
美容院にカットに連れ出して、少し外の空気を感じてもらいました
そして、母の念願だった実家で開業した「蕎麦屋まこと」に出かけ
実家の変わり様も見てもらいました

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この写真は、実家で以前は仏壇があった場所を背に撮ったものです
お蕎麦は美味しく頂きました

その後、母をホームに送り届けてから、今度は父の病院に向かいました
父は何所までこちらのことが判っているのか
実に判断しにくい状況ですので、心にストレスが溜まります

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両親の事をお気遣いしていただいている方へのメッセージとして
今日は、あえて両親の写真を掲載しました
心の病の進行状況は何とも言えませんが
体のほうはすこぶる元気で良い状況です

いつもお心遣いをいただきまして、ありがとうございます

そして今夜は、もう一人の父(妻の父・96歳)を伴って
すし屋さんへ夕食をとりに行く予定です

母の米寿祝

母が、先週12日に88歳の誕生日を迎えました
お祝いをしなければと思いながらも、日程が取れずに
やっと、昨日そのお祝いをする事ができました

母の兄弟姉妹で、佐賀にいる二人の叔父・叔母が来てくれて
本当に久しぶりの、姉弟妹による食事会でした

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久しぶりに会ったので、最初は戸惑っていた母でしたが
話が進むにつれて、以前の母に戻ってきました
叔父叔母も喜んでくれて、本当に楽しい時間を過ごす事ができました

ただ、やはり少し疲れた様子で
神埼のホームに着くと、ベットに座り込んでしまいました
また、こういった時間を作ることができればと思っています


さて、一昨日のブログで「健康な単なるデブ」と言った表現が受けているようで
エネルギー備蓄の皮下脂肪・・・災害時に効果を表す備蓄燃料と
日常に使用する、生活エネルギーの内臓脂肪との違いを
今改めて、自分なりに言い聞かせている所です

どこまで判っているのか

今日は突然に時間が出来たので
両親のところに出かけていきました

まずは、母のところに行きましたが
視察などがあったので、久しぶりに一週間以上の間が空きました
毎回ですが、私を認識する直前の母の顔は沈んでいます
その沈み具合が、毎回深くなっているような気がして心配です

記憶もまだらな所は変わりませんが
父に対する事だけは、毎回説明しても頭に入らないのか
それは1年前からのことでしたが
父の存在を否定したかった時期があったので、その後遺症でしょうか

来週は、盆前に髪の手入と食事に行く約束をしましたので
それはそれなりに喜んでくれていましたが
逢う度に何所となく元気がなくなってきていると感じるのが
辛い所です

母のホームを後にして、東脊振の西往寺に
お施餓鬼のお布施を届に行きました
父の名前で案内が来るのですが、父が行くことはできないので
私が代理で、お届けだけさせていただきますが
包む金額が判らずに苦慮しています

その足で向かったのは、大宰府市です
太宰府天満宮の参道に多くの出店が並んでいますが
そこに、オルゴールの専門店があります
オルゴールの修理をお願いに出向きました

それは、父が村長をしていた頃にヨーロッパに行き
母と妻とに、スイスで購入したオルゴールの一つです
そのオルゴールが壊れてしまって音が出なくなっていたので
修理をお願いに行きました

修理が終わったら、持ち主である母に所にもって行きたいと思います
母は覚えているのでしょうか
その頃から空が曇り始め、引き返す時に
鳥栖ジャンクションあたりは、前が見えないくらいに降っていました

最後に、父のところに行きましたが
今日の父は機嫌が悪く、「来たよ!」と言ったとたんに
私の腕をしっかりと掴んで来ました
力は相変わらず強くあるのですが、言葉は相変わらず出ません

丁度おやつの時間でしたので、私が相手をしていましたが
一言も話をしてくれませんし、何処かを睨んだままで
時々かんしゃくを起して、机を強く叩きます
私の存在は判ってくれているようですが、孫の事は疑問です

母に関しても、自分なりの解釈があるようですが
何処かは理解しているようで、状態が少し回復してきているようです
歩く事も、たどたどしい状態ですが、自分で歩きます

ただ、ある程度回復しても、今の生活から脱却することは出来ません
申し訳なくもあり、すまないと思うこともありますが
「心に鬼を住まわせないと介護は出来ない」と言ってくれた
その言葉を今一度胸に刻みました

明日の記憶

2006年に作られた若年性アルツハイマーをテーマにした映画です
渡辺謙と樋口可南子が夫婦役で、ご覧になった方も多いと思います
昨夜、BS朝日でテレビ放映されていましたので
妻と一緒に見ながら、お互いに感想を述べ合っていました

私にしても今だから判る、今だから言えることなのかもしれませんが
画面に映る一つ一つの事が身にしみてきました
崩れていく記憶、取り戻す事のできない記憶
どうすることも出来ないままに、ただ時間が過ぎていくことの辛さ

「これだけは忘れてはいけない」と奥さんの名前を書き込んだカップ
そのカップを握り締めながら奥さんを忘れていくシーンで映画は終わりますが
その時の樋口可南子が見せた演技は、私の胸を打ち、妻の胸を打ちました

妻も、6年間と言う長い義母の入院生活の中で
その後半に至って自分の事を忘れていく義母の姿を見つめてきています
私も、もう私の名前を呼んでくれない父
私のことを「にほんこく」と呼んだ父の声を思い出し
もう戻らない記憶の果てに、何があるのだろうと考えてしまいます

映画の場合は、特に若年性アルツハイマーなので
主人公達はまだ50代半ば
まだまだ長い人生の行く先を考えると、言葉に言い尽くせない辛さを感じます

そんな映画を見たせいでしょうか
私も、私の記憶が消えないうちに、父と母との介護戦争を書き綴ろうと思います
これから介護を経験しなければならない方々のために
私の経験が少しでも役に立てばと思います

敬老の日

敬老の日ですね。しかも昨日は父の誕生日と言うこともあって
今日は両親を、それぞれ訪問しました
特に、父は入院している施設での敬老会もあっていましたので
私服を持ち出して出かけました

施設に着くなり、大好きで最後に購入した帽子を見せると
満面の笑顔になり、早速自分で帽子をかぶっていました
父独特の被り方があるのですが、まさにその通りの手作業でした

施設のヘルパーさんや看護士さん達から「かっこいい」と声をかけられて
ご満悦の表情を見せていましたが
妻の事は全く判らない様子で、私のことも
どこまで判っているのか疑問です

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母は、何時もと同じ様子です
概ね一週間に一回の面会を楽しみにしてくれていますが
母の頭の中では、一日も一週間も同じ長さのようです
ただ、この一ヶ月ほどは本を読み始めましたので
何かしらの変化があってくれればと思っています

今日は、久しぶりに妻を伴いましたので
少しの緊張感が芽生えのか、割りにしっかりしていました

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護らなければならないもの

毎朝の散歩はいろんな情報や会話の源になっています
歩くコースはその日で異なりますが
北は佐賀市役所、東は旧佐賀線跡、南は南部バイパス、西は護国神社
この範囲以内で概ね40~60分歩きます
北コースを歩く時は最後に唐人町で豆腐を買って帰ります

今日、散歩の途中でちょっと立ち話をしましたが
その方のお婆さんを昨日施設に入れたと言う話をされました
お母さんが介護をしていたそうですが
「顔も見たくない」と言われるほどに疲れてしまい
自分自身もほとほと疲れきってしまうと同時に
このままではお母さんも倒れてしまうと判断されての事です

施設に送り届けて、その帰り際に
「批判は自分が甘んじて受ける、これで良かったんだ」と
心の中で誓ったそうです

私の時もそうですが、今本当に護らなければならないものは何か
そこが判断の分かれ目になると思います
まずは自分自身、それから自分の家族(配偶者、子ども達)、それから親
自分が倒れたら、自分の家族が困ります

その事は、私が両親のことで奔走していた昨年の1~4月に
妻から言われました
多い時には日に3回、ほとんど毎日実家と父の病院通いでしたから
そして今、その妻が病気になり、今私が護るべきものは妻です

「心に一匹の鬼を住まわせなさい」その言葉でどれだけ助けられたか
介護に向かう方に、今、私はその言葉を送ります
あなた自身が倒れないように、あなたの家族が倒れないように
護るべきものが何か、それを考えることです

近々妻が再入院するために、義父は今日から一時的に知り合いの病院で
健康診断と養生に入ります
そして、10月からはケアハウスに入所する事が決まりました
これから始まる、妻の入退院の繰り返しに対応するためです

母は元気

運動会から一夜明けて、多少けだるさが残っていますが
今度は、今週末に開催する車椅子バスケットボールに気持ちがシフトしています
一大イベントをなし終えて、「今日はゆっくりするぞ・・・」とマッサージ器に乗るや否や
バスケットボールに関する電話攻勢でした

そんな中、連休で診察も治療もない妻が一時帰宅していたので
「入院中は美味しいものが食べれないので・・」と言うことで
どこかに出かけて食事をしようということになりました
結果的には、近所の京風ラーメン「おちょぼ」でラーメンを食べることになりました

な~んだ麺類か・・と言われる方もいますが
私の母も時折外出で食事に行くと「麺類が良いといいます」
それは、暖かくてのびていない麺類は病院では出ないということです
私も入院の経験がありますが、麺類は兎に角、最も旨くないのです

ということでラーメンを食べることになりましたが
それに先立って、私の母の施設にも着いてきてくれました
「一人で行くと気持ちがめいるから」と
自分の病気のことはおくびにも出さずに、着いてきてくれます

母は、もちろん妻の病気のことは知りませんので
その時間は楽しくすごしています
好物のコーヒーを飲みながら30分程度の談話は
母のもっとも幸せな時間になったようです

母は元気です
そして妻は明日に控えた治療のために病院に戻りました

訪問

風邪の具合も少し快方に向かい、身体も動くようになりましたので
今日は、妻に同行してもらって、親3人の施設訪問でした
母と父と義父・・それぞれにタイプの異なる施設にいるので
訪問も一日かかります

もちろん、風邪をうつしたら大変ですので、マスク着用ですし
施設に入る時には消毒液で手の洗浄をします

母は元気でした
日にちの感覚がなくなっているので、今日が何時なのか
前回私が何時来たのかなどは、記憶にありません
その度に同じ質問があって、同じ答えをします

今日は珈琲と母が好きだったお菓子を持って行きましたが
とても喜んで食べてくれました

父は寝ていました
数日前に施設のレクリエーションの時に急に立ち上がり
(父は一人では歩くことができなくなったいます)
転んでしまって、頭と手に軽い怪我をしていて
包帯を巻いた状態で、ぐっすりと寝ていました

話しかけることはできませんでしたが
顔色はよく、少し安心して帰りましたが
2年前に見つかっている前立腺癌の動向が気になります
ホルモン治療も目安の2年がそこまで来ているからです

すでに第4ステージに入っていますので
進行が始まったら、転移と痛みが始まるということでした

義父は、本当に元気です
施設が身体に合っていたみたいで、顔色もよく
何といっても歩くときに杖が要らなくなってきています

部屋がエレベーターから遠いことと
仲間ができて生活にリズムが出てきたことが原因でしょう
3食きっちり食べられているようで
少し体重も増えたように見受けますが、本当に健康体です

2年が経ちました

父が倒れてから2年が経ちました
正確に言うと、あと10時間後に「その時」を迎えます
平成18年12月13日午前4時頃のことでした
今思い起こしても本当につらい時間だったことがわかります

今の父のことを訊ねてくれる方がいますが
今の父の状況を説明すると、ほとんどの方が
「悪いけど会いたくない」「会えない」と言われます

元気だったころの父を知っている方、父に近かった方ほど
そういう気持ちになるのではないかと思います
「だからこそ会いたい」と言っていただく方も稀にはいますが
ほとんどの方が、「すまん」と言われます

それで良いと私も思っています
元気かった頃の、「どうしようもない親父」の思い出を
どうか大事にしていただいてほしいと思います
会われても、父には誰が来たのか判別がつきません

明後日の日曜日に、両親にあいに出かけます

正月前の一つの行事として、散発と言う作業があります
今日は、母を伴ってニューオータニの美容室に行きました
2カ月に一回の割合で、美容室に伴っていますので
物忘れが激しくなってきた母でも、ここはしっかりと覚えています

おおむね2時間の内容でした
これまでは、あまり疲れたとは言わなかった母でしたが
今日は、「さすがに疲れたよ」と言っていました

なかなか一緒に食事をすることも少なくなっているので
今日はそのまま地下の中華でのランチタイムを楽しみました
「久しぶりね」と母も喜んでくれました

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写真は、その時のランチを待つ間の写真です
とてもいい表情をしていると思います

その後に、お墓参りをして施設まで送って行きましたが
記憶力の低下に著しい偏りがあることが気にかかります
特に、息子のことになるとどうも情報が交錯しているようで
毎回同じことを、それも同じ日に数回聞いてきます

足取りとか、食欲はしっかりしていますので
取り立てて心配はいりませんが
記憶力が少しでも回復してくれればと願っています

父の車椅子

親父のことについて電話が来ました
「お父様は足が長いので、身体に合った車椅子を購入されませんか」と
親父は大正生まれとしては身体が大きいほうで
確かに足も私よりは長いようです

見舞いに行った時などは、足が車椅子からはみ出している様子を
たびたび目撃していましたので、考えないでもありませんでした
また、親父は一日のほとんどを車椅子の上で過ごしていますので
少しでもいい環境にとも、考えました

ただ、私はその方面には素人なので
整形外科の院長先生とも相談したり、妻とも話しましたが
「親孝行と思って・・・」と強く背中を押してくれました
ちょっと金額が張るのがつらいのですが、親孝行です
リクライニング機能が付いた、身体にやさしい車椅子を購入することにしました

あと何年乗れるのか、そのことの意味がわかってくれるのか
そういったことを考えると、何もできませんので
一日でも、訳はわからなくても、親孝行のまねごとと思って
親父に相対していきます

車椅子が来た

父の車椅子が来ました
施設の方から進められて購入した車椅子ですが
父は気持ちよさそうに座っていました
リクライニング機能もあり、ほとんど一日の大半を車椅子で過ごす
父のとって親孝行のまねごとをさせてもらいました

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確かに価格もよかったのですが、機能もよく
またクッション性にも優れているので、あと何年使うかわかりませんが
兎に角、少しでも快適にという気持ちでした
あと後、もしかしたら私が使うこともあるかもしれませんしね

その父が、今日は気持ちよく笑ってくれました
心からの笑顔を久しぶりに見ることができて
今日は行って良かった・・・そう思います
いつもは反応がないためにつらい気持ちで帰るのですが
これまでの憂鬱を取り払ってくれる笑顔でした

一つの死

叔父が急逝しました

24日の午後2時までは確実に生存していたことが確認されています
今日になって、予約があった病院から
「お見えになっていませんが」という連絡が家族に行き
様子を見に行ったところトイレの前で倒れていたのが発見されました

急性心不全・・心臓まひでおそらく即死状態ではなかったのか
死に顔は穏やかで苦しんだ跡はなく、それがせめてもの救いでした
不自然死ということで警察の検死が入り
一連の手続きに時間がかかってしまいました

叔母さんは介護3という状態で、
叔父さんが亡くなったことは知らされていません
その叔母さんも居間に倒れていて、
脱水状態にあったといわれています

この老夫婦は、自宅での老老介護状況にあり
傍目から見ていても叔父にかかる負担は大きいものがあり
「施設への入所」をかなり強く勧めたのですが
「自分が見る」といって自宅介護を選択されました

しかし、推測するところその介護が結局は心労となって
叔父の命を縮めたのではないかと思います

我が家も、母が父の介護を拒否したところから一連の騒動が始りましたが
結果として、施設において両親を見てもらっていることで
我が家の生活も何とかなっているところです

自宅介護は、一人の人にかかる負担が重すぎます
しかし施設に入所するには費用がかかります
佐賀はまだ安いので助かっていますが
都会では、金持ちしか入れない状況だそうです

真に国や行政が老後の、それも介護を真剣に考えるなら
もっと財政的な援助を行うべきだと思います

両親のこと

私のブログの読者の方には
私の両親や妻のことを知りたいということで読んで頂いている方が
まあ、そこそこにいらっしゃるようですので
時折、そういった話題を書き込んでいます

今日は、午後から特別委員会が予定されていたことや
月初めには必ず両親のところに行くようにしていましたので
午前中に施設と病院を回ってきました

母は、私が施設から連れて帰ることを期待しています
ここ数回、私が行くと「やっと来てくれたね、帰ろうかね」と言います
今は、帰りたい症候群が母を覆っているようですが
入所当初のような「帰る!」といった強硬なものではありません

「仕事の途中で寄ったから、今日は帰れないよ」と話し始め
なかなかインプットできない父のことや実家の事を
繰り返し繰り返し話してあげることになります
そして帰る頃には、ここ居る事がベストであるというように
意識を持っていきます

既に日数の感覚はなく、孫のことも記憶から消えかかっています
先週の叔父(母の弟)の死についても、記憶が定かではありません
身体の方はこれといった障害はないのですが
頭の中は、一気に認知が進み始めているようです

父は、話せなくなってから久しいのですが
最近は寝たきりになっています
病院の方から「父の身体に合った車椅子を」と言われて購入した
ちょっと豪華な車いすに変えたとたんに寝たきりになりました

介護の方に聞くと、車椅子の座面が柔らかいので床ずれを起こす
という理由で、寝たきりになってしまったようです
進めた方に聞くと、角度の調節で床ずれは防げる・・といわれますが
実際には寝たきりの状態が続いています

ただ、私が行くと必ず握手を求めてくれますので
強く握り返しますが
父の握り返しが、だんだん弱くなってきていることが心配です

父の誕生日

今日は父の85歳の誕生日です
元気であれば家族と一緒に食事会でも出来るのですが
今ではそれはかないません

父と最後にきちんと食事をしたのは、平成19年4月
福岡病院を退院して、母がいる神埼に向かう途中で
「浜勝」にて、一緒にとんかつを食べたのでした

その後に、両親でロイヤル神埼を飛び出すという
思ってもいなかった行動を起こし、
取りあえず家に帰りましたが、両親の間に何かトラブルが発生し
母が、あれほど嫌っていた「ロイヤルに帰る」と言いだし
母の頭から父が消えてしまうことになるのです

父はその後、ロイヤル神埼から施設を出て行き
今いる清友病院で介護を受けることになるのです

父から言葉が消えたのは、今年のこと
今は寝たきりになってしまい、私のこともわかりません
せめて、せめて言葉を理解することが出来れば・・・と
父の認知の進む速度の速さを悔しく思います

それでも、父は生きています
今夜、これから、私ひとりで、心ばかりのお祝いをします
父の気持に届いてくれれば嬉しいのですが

親父よ!!誕生日に乾杯だ

今日は母と

明日からの本会議を前に、今日は議会は休会
この時間を利用して、母と半日行動を共にしました
大きな理由は、母の診察目的です

10月に状態が悪くなって心配していました
被害妄想がひどくなったり、徘徊が出てきたということで
以前から専門医の診察を希望していましたが
議会の公務が入り、なかなか時間がとれずにいました

そこで、今日は専門の精神科と耳鼻咽喉科で
それぞれに悪いところのチェックでした
前回の検査に比べると、記憶障害は明らかに進んでおり
特に図形や数字において、理解力が低下していました

耳鼻咽喉科の方は左耳が難聴になっていることの検査でしたが
これは現状維持ということでしたのでほっと一安心です

昼食は、施設ではなかなか食べられないということで
熱々のお蕎麦です
時には奮発してもいいのにと思いますが
母は無類の麺類好き、「蕎麦が一番」と完食していました

帰り際にお寺によって、お墓参りとお寺参りをしましたが
本当に喜んでくれたのでしょうか
帰り際のさみしげな顔は、目に焼き付いてしまいます

記憶

夕方、犬の散歩をしながら、ふっと考えたことがあります
それは、父との最後の会話です
それが何時だったのか、何を話したのか
必死になって思い出そう、記憶の扉を開けてみました

しかし、認知が進む中、会うたびに話が通じなくなっていく
そんな時の何処が最後だったのか極めることはできませんでしたが
父が最後までこだわっていたのが
腕時計とベルトと運転免許証を持ってこいというものでした

父にとっては車の運転が最後まで忘れる事の出来なかった事で
明らかに認知が認められて、車の運転を止めさせるために
運転免許証が見つからないことにして
運転を止めさせた経緯がありましたので、最後まで「探して来い」と言っていました

きっと、毎回毎回そのような会話をしていたと思います

昨年の敬老の日には、帽子を持っていくと
嬉しそうな顔をして、ちょとばかり斜にかぶる癖そのままに
帽子をかぶっていましたが、その時は会話は無かったので
最後の会話は、昨年の5月頃に娘を連れていった時だったのかもしれません

既に1年6カ月という時が過ぎているのかなと思うと
やはりもう一度父と話をしてみたいと感じながら
犬の散歩を続けました

母と買い物に

施設から、「春物をそろえてください」という電話で
午後の予定をすべてキャンセルして
妻を伴って、母の施設に急ぎました

確かに母は、下半身がむくんでいて
全体的に肥満が進んでいます
病院でも見てもらっているのですが
原因がはっきりしません

そこで、普段に着るシャツやズボン、下着を仕入れに行きました
ほとんどのものが小さくなっているので
ある程度まとめ買いになります
一着一着は、抑えた値段なのですが
それでも数が溜まると・・・財布が空っぽです

でも、喜んでくれる母の顔を見ていると
「これも親孝行のまねごと」と
施設に預けている後ろめたさに自己満足を与えて
何処か納得させている自分を見ます

一休みでコーヒーショップに寄った時は
本当に嬉しそうに珈琲を飲んでくれました

今日の母は、3年以上もあっていない父が
一本の電報を見て「これは大変だ!」と
取るものも取りあえずに飛び出して東京に行った
そう言った話を一生懸命にしていました

少し進み始めたのかもしれません

母の記憶

遂に、来るべき時が来ました
母の記憶の中から私が消え始めました
もしかしたら、もう消えているのかもしれません

今日は、妻と娘を伴って父と母と義父の三者参り
回った順番とは別ですが
義父はすこぶる元気だと言うことです(私は運転疲れで車中仮眠してました)
父は風邪をひいたとかで隔離中で面接出来ずでした

母の施設はエレベーターで上がるのですが
エレベーターを出た時に、丁度正面に母がいました
何時もなら私を見ると笑顔が出る母ですが
この日は、知り合いだとは判っているが誰jか判らない
そんな顔でした

私の事を、昨年亡くなった、直ぐ下の弟と思っているらしく
「まあちゃん」(正喜叔父)と私を呼びました
「龍一」と言う名には「心当たりがない」といことで
「結婚した事もないので、子どもはいない」という返事でした

とうとう最後まで、私の名前はもちろん
私の存在さえも思い出してもらえませんでした

その兆候は、一週間前にありました
二日続けて会いに行った時の事

「私がここにいる事に良く気づいたね、探してくれてありがとう」
と言う、言葉を私に投げかけてくれましたが
その言葉は、父が私を認知しなくなる直前に言った言葉と同じで
何処となく、不安を感じていたのですが
ついに来る時が来ました

これから、物言わぬ寝たきりの父と
身体は、まだ何とか元気ながら、認知が進んできた母と
二人の残りの人生を見つめながら行かねばならないかと思うと

今夜は、飲まずには居られませんでした

母と父

今日、母を病院に入れました
どうしようもない選択、それは言い訳かもしれませんが
あの日、心に棲まわせた鬼がそうさせたのかもしれません
すまない・・という気持ちで病院を後にしました

後で話を聞いたのですが
ここのところ、母の言動に「暴力」が伴うようになったり
徘徊や記憶障害が一気に進んで、部屋を間違えるようになったようです

今日も、私に対する認識は基本は母の弟であり
「龍」と言う名前を出すと、「あんた」と言いますが
次の瞬間には、弟に戻っています
但し、「龍」は息子ではなく、やはり弟の一人のようです

昨日からの熱と腹痛の治療のために
まずは点滴を受けてから、今日の行動が始まりました

11時過ぎに母を迎えに行って
福島家のお寺である、西往寺にお参りです
房守さんとお話をさせていただきました

昼食は母が好きだった「百年庵」に行きましたが
「このお店には初めて来た」としきりに感心した様子
好きだったそばを注文しましたが
これはしっかりと完食していました

次に大和町にある常立寺(母の実家のお寺)にも立ち寄り
その足で、父も入院している病院に向かいました
2時について、全ての手続き等が終わったのは
午後4時30分を回っていました

治療がうまくいって、元の施設に戻れたとしても
おそらくは、同じようなことが繰り返されると思います
また、今までの施設では、そう言ったことに対応できないので
安心して託すこともできません

結論を出す時は、もうすぐです
もう一匹、鬼を棲まわせなければならないようです

法的手続き

「医療保護入院」と言う言葉をご存知ですか

精神保健福祉法(医療保護入院)
第33条
 精神病院の管理者は、指定医による診察の結果、精神障害者であり、
かつ、医療及び保護のため入院の必要があると認めた物につき、
保護者の同意がある時は、本人の同意がなくても
その者を入院させることができる。

私の両親の入院がそれに当たります

この場合、夫婦のいずれか一方に判断能力がある場合は
一方の配偶者が、入院する(認知障害のある)一方の保護者となります
この場合は、夫婦であることを証明するだけでなので
手続きは簡単です

しかし、今回の入院のように
既に父が医療保護入院になっている状態で
引続き母が同じく医療保護入院となると
子どもである私が保護者になる必要があります

この場合には、面倒な手続きが求められます

流れとすると、
① 入院患者の戸籍謄本
② 保護者の戸籍謄本
③ 保護者の住民票
④ 保護者の身分証明書(市町村発行)
⑤ 保護者と入院患者との関係が判る戸籍謄本(原戸籍)
まずこれだけの書類が必要です

次に法務局あてに
⑥ 登記されていないことの証明申請書(入院患者分)
⑦ 登記されていないことの証明申請書(保護者分)
これを作成して、原戸籍を持って申請します 800円の登記印紙

法務局で証明をもらった後で、家庭裁判所に出向き
⑧ 保護者選任申立書(収入印紙1600円)
⑨ 承諾書

これまでに揃えた書類
⑥ 登記されていないことの証明申請書(入院患者分)
⑦ 登記されていないことの証明申請書(保護者分)
① 入院患者の戸籍謄本
② 保護者の戸籍謄本
③ 保護者の住民票
④ 保護者の身分証明書(市町村発行)
⑤ 保護者と入院患者との関係が判る戸籍謄本(原戸籍)

これで、何を証明するのかと言うと
法務局では、入院患者も私も
成年被後見人、被保佐人、被補助人、任意後見契約の本人とする記録がないこと

家庭裁判所では
法廷の保護者はいるが、その者が次に当たり保護者となれない
(7) 配偶者が医療保護入院のため、保護者の任務を行うことが出来ないこと

これだけの証明を取らないと、私が保護者になれない・・と言うことです
しかも、父と母の二人分・・料金も手間も2倍かかります

叔父とともに

父の妹の旦那が久しぶりの里帰りと言うことで
私が運転手をしました

お昼間近に佐賀駅に到着しましたので
佐賀駅北口の「おおしま」でまずは昼食を食べながら
お互いの近況報告です

昼食後から、私の両親の入院している病院から
叔父の実家のある集落に
その後、東脊振にある西光寺(叔父のお寺)と
西往寺(私のお寺)にお参りしたあと
仁比山神社にお参りをして、佐賀駅まで送りました

両親は、顔を合わせては、いるようですが
お互いに認識はしていないような雰囲気でした
母は、あれから私を弟と思いこんでおり
自分に子どもはいないと言い張っています

何故か、全ての憎しみが父に向けられており
自分で作り上げた話の中に入り込んでいます
帰り間際には不安そうな顔で「私は何処に行けばいいのか」と
聞いてきましたので「もう少しここにいてね」となだめる状態です

明らかなる認知の進行に戸惑っています

退所

ロイヤルケア神埼を完全に退所しました

思い起こせば、平成20年3月に入所し
同年4月に父と一緒に施設を巻き込んだ大騒動
その後、再び戻ってからは、それなりに落ち着いた日々でした
2年が過ぎた頃から、安定剤の投与が増え始めました

そして今年の4月までが、何とか私を覚えてくれていた時間です

たった1週間で、こんなにも認知が進むなんて思いもしませんでした
今の母は、自分が作り上げた世界にいます
私は、母の直ぐ下の弟(昨年鬼籍に入っています)になっています
それでも「龍は何処にいる」というと「あんた」と言ってくれますが
それも一瞬です

今年に入ってから徘徊も見られるようになり
連休明けに遂に暴力を振るうようになったとのことです

午前中に施設に行き、書類に署名をし
ケアマネージャーさんとしばしお話をし
「この介護経験を政治の世界で生かして下さい」と励まされましたが
話の端々で、涙が出てきました

この3年間、本当にお世話になりました
もう一度お尋ねしなければなりませんので
改めてお礼を申し上げますが
おかげで、自分の生活を守ることが出来ました

おそらく、訪問した回数は
3年間で200回は超えているものと思います

妻から貰った休日

当初の予定では、24.25日は消防学校で
中級幹部訓練の予定でした・・・が
受講生が少ないと言うことで中止になりました
何の予定もない二日間が発生したのでした

その時、妻が一言
「自分が元気なうちに、行きたいところに行ってきたら」
「余市に行ってきたら」・・・と
後押しをしてくれました

と、言うことで
ニッカウヰスキー、北海道余市蒸留場に一泊で行ってきました
念願の余市に行ってきました
ありがとう

今週末には、妻が京都に行ってきます
娘の所にも行くと思いますが
妻の友人が奇跡的に京都に集まるので
久々に、ゆっくりとした時間を過ごしてもらいたいと思っています

抗がん剤治療を止めてから
最初は、もしかしたらガンが一気に進むのではないかと
心配もしていましたが
今は顔色も良く、いい状態を維持しているようです

肝臓と肺に転移しているガンが消えているわけではありませんが
その進行は、心配していたのを裏切るかのように
本当に微々たる状況です
このまま、ストレスの少ない状況で暮らすことが出来れば
もしかしたら、奇跡が起きるのでは・・・と

この二日、妻から貰った休日
そして終末から四日、今度は妻が休日を楽しむ番です

両親のことの報告

昨日、両親の入っている病院に行きました
父は、相変わらずベットの上で眠っています
何故か、ここのところ点滴が続いていて
施錠されている部屋にいます

母は、以前父がまだ元気だったころによくいた場所にいます
前回に行った時よりかなり改善されてきていて
父が同じ病院にいることも判っているようです
一緒に窓越しに父を見ながら話もできました

そして、一か月ぶりに私を息子と認識してくれました
ただ、被害妄想は激しく
名前をはっきり言うと、泥棒が来るといって
変な独特の言い回しで、名前を言ってくれました

ふっふっふ~のふっふっふ
くっくっく~のくっくっく
しっしっし~のしっしっし
まっまっま~のまっまっま

こんな感じで、リズムと音程をつけて話してくれました
身体のほうは特に問題はないようで
一緒に散歩もできました
もっと。もっと、長生きしてもらいたいと思います

今日は両親のこと

年に一回の成人病予防検診に行ってきました
昨年に比べて、やはり体重は5キロ増えています
15キロの減量の後、5キロのリバウンド
さて、兎に角3キロの減量を目指します

ただ、一昨年に83キロから68キロまで落とした時のような
急激な、そしてぎりぎりの減量は身体に無理が来るのと
どうしても貧相な顔になりますので
時間をかけながら、取敢えずはこれ以上増えないように
地道に頑張ってみます

さて、午後から妻の父の施設と両親の病院に行きました
6月は議会もさることながら
土・日曜日も予定が多く面会に行けなくなるので
時間のある時に、行こうということで出かけました

義父のところは妻がお土産を持って訪問
その間、私は車の中で仮眠をとっていました

両親は病院に入院している状態なので
毎月、後期高齢者医療保険者証を見せる必要もありますので
必ず訪問することになっています

病院に入っていくと、母が「龍さん」と言って
廊下を急ぎ足で来ました・・今日は判ってくれてる・・と
「父さんもいるよ」と父が入院していることも
それなりに理解しているようでした

その父が、母と妻とを伴って病室に入ると
突然泣き出して、妻の手をしっかりと握ってきました
「判っている」と感じた時間でした

ただ、看護師さんに聞くと
お母さんは、日替わりもあるが時間でも違う
突然怒り出したりして、情緒不安定で今は珍しい・・と
先日は「こんな老人は知らない」と怒っていたとか

今日は、両親の最も良い状況の時に来たようで
それはそれでうれしい時間でした
一緒に帰りたがる母を残すのは心苦しく
心の中では「すまん」と言っていたのかな

ツーショット

昨日、午後から両親の病院に行ってきました
議会から選挙と、時間がなかったので
本当に久しぶりのお見舞いになってしまいました
ただ、両親が同じ病院にいることは、ある意味安心です

両親の画像

この写真は、平成18年以来のツーショットです
この様な写真が、どのような形であるにせよ
再び、シャッターを切れる時が来るとは思いませんでした
次に行く時は、一眼レフを持っていきます

いろんな形で両親を心配していただている方への
今日はメッセージです

母は、父と同じ病院にいることが判っていません
毎日どこからか通って来ていると思っています
そして父がしゃべらないことをも、どこかで理解しています
父に話しかけるときのトーンは昔のままです

父は、母が転院してから、明らかに変わりました
目に光が戻ってきています
相変わらず言葉はありませんが
母のことも私のことも、どこかで理解しています

母と、私と、妻を見ながら
何かを一生懸命に考えている様子ですが
その内容を計り知ることは不可能です

点滴の痕が痛々しく感じるほどに内出血していますが
肌の色そのものはきれいで
髪も髭もサッパリと整えて頂いており
私は、この病院になって良かったと思っています

母は、もうすぐ89歳になります
まだ、自分で歩くことはできますが
トイレに関しては、介助が必要な状況になってきているようです
一緒に外出することは、もう難しいかもしれません

今いる病院が、両親の終の棲家となる可能性は
100%です
父が、この病院に来て、、もう3年になります

大雨の中を

自民党の有志で、選挙御礼の辻立ちを行いました
本当は、昨日に行う予定でしたが
昨日の朝の大雨で、急きょ中止、今日に延期となりましたが
今日のほうが雨はひどかったですね

若楠の佐賀警察機動隊前の変則交差点で
概ね30分ほどの辻立ちでしたが
「やっていたね」と後から声もかけてもらいました
見ている人もいるものですね

今回の選挙で、最も変わったのがこの辻立ち
これまではほとんど無かった行動ですが
今回は、勝手連的に広がって、みんなが自主的に参加しました
また選挙後の辻立ちも初めてのことでした

午前中に、いくつかの仕事を終わらせて
午後から妻を伴って、両親のお見舞い等などに出かけました
まず私の両親のところに行きましたが
父の様子は、明らかに変化してきています

本当に久しぶりに、1年以上ぶりに父の声を聞きました
顔色もよく、母が側に居ることだけで
こんなにも変わるものかと驚いています

一方母は、足腰の状態が、だんだんと悪くなってきています
顔色もいまいち良くないのですが
認知のほうは落ち着いてきているようです

その後、義父の施設に妻を送って(私は車中で仮眠)
先日、肩甲骨を折った親戚の方のお見舞いにも行ってきましたが
最初に対応された病院のひどさにあきれるばかりです

転院した病院で確認された脳挫傷がまだ尾を引いています
経過は良好で、数日以内にはリハビリも始まるようです

最初の病院が言うように、帰宅していれば
良くて記憶障害で認知症と運動機能低下
悪ければ命に及ぶところでした

家族

息子夫婦が帰省しているので
一緒に、私の両親と義父のところに出かけました

まずは、嫁に福島家のルーツ、旧東脊振村と実家を案内
先日お願いしていた垣根の伐採も確認できました
吉野ケ里公園の周りを一周する感じで回りましが
手入れをしていない我が家は、遠目には雑木林です

11時頃に、時間前とは思っていましたが
両親が入院している、久保泉の病院に面会にいきました
母は、最初は息子のことが判らない様子でしたが
しばらくすると、判ったみたいです

皆で父の寝ている病室に行きました
ちょうど点滴をするところでしたが、ちょっと時間をもらって
家族でしばしの時間を共有させてもらいました

最初は動きの無かった父も
終り頃には、手を小さく振って見送ってくれました
今日の父は、「危ないのかな」と思わせる状況で始まったので
最後にはほっと一息つきました

母は、別れたくなかったようですが
お昼ご飯時になってこともあって
その事を潮時として別れてきました

義父の施設は、そこから車で5分程度の距離です
お昼御飯を一緒に食べようと約束していましたので
近くのレストランに行きました
イタリアンだったのですが、ちょっと選択ミスだったかもしれません
今度は、義父が好きな食事に同伴したいと思います

息子夫婦は、明日から九州旅行に出かけます
早めの夏休みだということです
帰る前に、もう一度寄ってくれるみたいです

写真は、父の手を取っている母です

画像の確認

母と父

妻と娘を伴って、両親のお見舞いに行ってきました

その前に、義父のところにも妻と娘はお土産を持って行き
しばらく話をしをしていましたが
私はどうも疲れが取れずに、車で仮眠を取っていました
天気のせいもあるかもせれませんが、身体がいまいちシャキッとしません

さて両親ですが
父は発熱があったとかで、点滴を受けていました
寝たきりなのは何時ものことですが
前回も今回も、「危ないのかな」と思わせる雰囲気がありましたが
手を握ると、しっかりと握り返してくれます

また、娘が語りかけると、その顔を追うように眼が動いています
途中で母と話すために「ちょっと行ってくる」というと
心なしか、うなずいたようにも感じました
身体が衰弱しているのは確かですが、心は生きています

一方、母ですが
今日は何か哲学的な発言が続きました

「福島の家のしきたりから解き放たれなさい」
「長い間かかったけれど、問題は残っていないのか」
「先祖のことを思い煩っているより、自分のことをしっかりとしなさい」
「もう、全てを終りにしたい」

最近夢の中に、誰とは判らないが先祖が出てきて
いろいろと母に話しかけるそうです
その中で、その先祖が
自分たちに関わることにわずわされることはない、もう自由にしなさい・・と
母に語りかけるそうです

また、母が終りにしたいと言っているのは
「命」のことではなく「何かの思い」を断ち切ることのようだと感じたのですが
妻や娘は、その言葉を心配していました
「生きる」力を無くしたら、本当に終りになります

ただ、非常に複雑な思いがしたのは
両親の生きることが、両親にとってはどんな意味があるのだろうかと
私たち家族にとっても・・・
どの時点で「もういいよ」と言う時はあり得ませんが
「生きる」ことの重さを感じてしまいます

経管栄養

父は昔から、誤嚥する傾向が見られましたが
今もなお、時折誤嚥があり、そこから発熱する事がおおくあります
先日見舞いに行った時にも、誤嚥からくる発熱で
点滴と絶食状況でした

点滴でも生命の維持はできますが
やはり食物を直接に摂取しないと元気は出てきません
そこで、医師との相談の上で、胃ろう法の手段を取ることにしました

カテーテルを鼻の穴から通す、経鼻法と言う方法もあるようですが
より確実な方法を選択することにしました
食物を直接摂取することで、体力がついてくれれば
母との接触にも良好な結果をもたらすのではないかと期待しています

ある意味では、ただ単に生命を維持するだけの作業かもしれませんが
母が転院して同じ病院に行ってから
明らかに父の様子が変わってきたことは事実です
その事の副作用で母の記憶障害も少し改善されています

せっかく3年の別居時間を超えて
夫婦が同じ場所にいるのですから
残り短い時間でも、お互いのことが認識できるまでの回復を
望みます

転院

午前中は白山恵比寿の夏祭り
福岡たかまろ参議院議員、岩田和親県議会議員も参加して
炎天下をものともせずに、おごそかに催行されましたが
洋服の中は、滝のような汗が流れていました

午後からは、父の転院の手続きで、ほとんどの時間を使いました
以前から誤嚥が多く、その度に熱を出して
絶食でやっと治したかと思うと、また誤嚥
点滴で生命を維持している状態でした

医師からの勧めもあって、胃寠の手術を受けることにして
今日、手術を受ける病院に転院しました
午後1時過ぎに病院に行って父の到着を待ちます

救急車で父は運ばれてきましたが
見るからに痩せて、体重は37キロしかありませんでした
最も太っていた頃には90キロ近くあったのですから半分以下です
痩せてしまった父を見ていると、胃寠手術の成功を祈りました

ただ、数日前から肺に水がたまっているとかで
おそらく誤嚥からくる、肺炎だろうということでした
そこでまずは肺炎を治してからの手術になりそうです
もっとも、父の体力がもてばの話です

もし、肺の水がガンの転移から来たものであれば
おそらく手術は中止になるかもしれません
兎に角、この一週間が一つの勝負どころになります

突然の電話

ツイッターにも書き込んでいますので
時には話の内容が重なってしまうこともありますが
ツイッターでは文字制限があり、全てが書けませんので
ブログで再び書き込むことになしました

それは、今日の午前中の遅い時間のことでした
「明日、お父さんの胃寠の手術をします・・・」という
看護師からの電話には本当に驚きました

一昨日にも病院に行って、「まだですかね」と師長さんらしき人に聞いたら
「まだ、肺炎が収まっていないのでもうしばらくかかるでしょうね」と
また、昨日にもタオルを換えに行っているのに何もなく
今日突然の連絡でした

それでも、やっと処置をしてもらえると思うと、ほっとしました

今日の行事を済ませて、早速病院に行って
医師と看護師から明日の予定について話を聞きました
切開して器具をはめ込むものと思っていましたら
内視鏡を使っての意外と簡単な処置と言うことでしたが
衰弱した身体と、高齢による不安もありますので、立ち会うことにしました

しかも明日は妻の定期検診の日でもありますので
妻の送り迎えに健診結果を一緒に聞かねばなりません
父には申し訳ないですが、優先順位は妻のガンの進行確認です
妻の元気がなければ、父の看病もままなりません

台風も近付いているというこの時に、本当に大変です
しかも明後日には私の一般質問もあります


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